音楽の楽しみ方の変遷 Part II


 


そして今の話。この間もここで書いたけどMayu Wakisakaさんのライブにはちょこちょこと見に行っている。Mayuさんのライブはいつも同じメンバーで演奏している訳ではないので、その音はまさに一期一会。


 


今日は誕生日ライブということで渋谷の『CAFE and DINING and people』で特別なライブでした。パーカッションのTakaさんはMayuさんと同じ誕生日、ギターのMasaさんは1日違いというレアな構成。先にお店の雰囲気を紹介すると、たくさんのキャンドルの灯りがあって雰囲気はGood。開始前にちょっと撮ったのがこれ。


DSC00098


 


ライブが始まるとこんな感じで。


DSC00102


ファインダーを通して見ているから余計に分かるんだけど、Mayuさんの歌で周りの人の表情がどんどん笑顔になっていく。やっぱりヘッドホンやスピーカーから聴く音楽よりもライブで聴くのが一番ですね(僕の場合にはお酒があった方がいい)。


 


もう一つの楽しみは歌っている姿を写真に撮ること(もちろん許可を取って)。今回のマイベストショットはこれかな。


DSC00149


 


今でも普段はウォークマンiPhoneで「音楽を聴く」ことが中心だけど、音楽だけじゃなく「楽しみながら音楽を聴く」になり、そのまた一部が「(演奏者じゃなくて)自分も参加する」という楽しみ方に変化している。それは東京と場所に住んでいるからかも知れないけど、CDショップがほとんど姿を消し、TVでの音楽番組が減った時代を考えると音楽の楽しみ方そのものも大きく変わってきているんだろう。


自分で気に入った音楽にずっと触れていたいなら、その対価を払うことが楽しみ方の最低ラインだと思う。プラス、僕と周波数が合う人はきっと気に入ると思うのでカバーのPVを紹介しておこう。


音楽の楽しみ方の変遷 Part I


 


小学校の頃はラジカセで、中学校以降はステレオで音楽を聴くことがほとんどだった。高校になると時々コンサートにも出かけるようになり、大学〜独身社会人時代は海外からのアーティストを中心にいろいろなライブに足を運んだ。この時期にはCDも月に10〜20枚ぐらい買っていて、今でも僕のCDライブラリのほとんどはこの時期に購入したものである。僕の後の世代も同じように過ごしていくんだろうなあ、と思いながら、実は全然違う道のりを歩んでいるようだ。


 


僕が中学の頃に初代ウォークマンが発売され、高一の時にヒット作であるウォークマンIIを手に入れた。通学の時に電車の中で聴くことはあっても、家の中ででウォークマンを使って聴くことはなかった。オーディオシステムがあったこともあるけど、どこかで「音楽は全身で聴く」という意識があって、「耳だけで聴く」というのはサブあるいは代替えでしかなかったのだと思う。


それが今や電車の中を見渡せばヘッドフォンをしていない若者の方が少ないのは・・・と思うほどの状態。ウォークマンのようなポータブルオーディオプレイヤーでなくても、ケータイやスマホで十分に音楽を楽しめるし、音質を度外視すればケータイやスマホを買った瞬間から兼オーディオプレイヤーに変身する。一つは「ダウンロード」という手段で新しい音楽を手に入れる方法が一般化したことがあるだろう。これまでレコードなりCDなりに音楽がパッケージされていた時代には何かしらの機器から他のメディア(プレイヤーのメモリも含めて)にコピーする必要があった。しかし、プレイヤー機器が通信機能を持ち、音楽がファイルというデジタル媒体になった瞬間にスタンドアローンで取り扱うことができるようになった。趣向のパーソナル化や決済方法の簡易化などいろいろな外部環境の対応も含めて変化の後押しをした感じである。それに伴って、ラジカセはもちろんオーディオシステムは特別なものになり、そもそも「音楽をスピーカー経由で聴く」という行為すら前時代的な形相になりつつある。


 


社会人になってからのリスニングルームは主にクルマの中になっていった。R32の時にはADDESTのマルチを組んで、スピーカー1つに対して80Wのアンプを1台という構成で、トランクには6台のアンプが並んでいた。タワーバーも入れていたから、トランクにはゴルフバッグが1つぐらいしか入らなかった。それでも音楽を聴くための投資は高いと思わなかった。まだまだ投資した分だけ音質が良くなる時代だった、ということもあるだろう。が、自然とクルマのオーディオも純正で、メディアもCDからiPodiPhoneに変化していった。でも、どこかで満足はしていなかったんだと思う。


 


1年ぐらい前だろうか、たまたまYouTubeでこの映像を見た時に「きっと求めている音楽の楽しみ方」ってこういうイメージなんだろうなあ、と感じた。



バブル崩壊後に青山スパイラルでジョディ・ワトリーのライブに行って、その時はビールを飲みながら200人ぐらいの規模で楽しんだ記憶があり、「好きな音楽をライブで聴きながらお酒が飲める」、これが僕の中の理想形になっている。

作品を見ながらインスパイアされて自然とシャッターを押してた『七澤菜波 墨象展「爛-RAN」ー朽ちてゆく花は妖艶なりー』


DSC00061


 


個展会場の入口に立ち、鮮やかな花を目の当たりにすると彼女らしい雰囲気が立ちこめていた。作品を一通り見て、もう一度その場所に立った時の僕の印象はこんな感じだった。色が抜けているんじゃなくて、自分の心の色を重ねる余地を残しながら作品としては完成している、そんな気がした。


今回のテーマになっている「爛-RAN」を彼女の言葉で表現すると、



ひとつの漢字で、“光り輝く”という意味と“ただれる。くさる”という


両極端の意味があります。


以前から、朽ちてゆく花の姿に惹かれていたので、


朽ちてゆくものの美しさを表現したいと思いました。


となる。とても短い時間で華やかさは枯れ、しかしそれぞれが持つ美しさは琴線を揺るがす。そんな作品たちを見ていると、自然と自分心の気持ちもインスパイアされ、ファインダーから見える景色もいつもと違って見える。普段は人の表情にしか触発されないのに、今日は不思議と「こう切り取りたい」という気持ちが生まれていた。


 


DSC00064


自然の「生」と作られた「生」、「色があるもの」と「墨の色だけのもの」。その場で両方を交互に見ていると、どっちがどっちかわからなくなる。気持ちの中で時間軸のレバーを未来に動かしてみると、本当は逆なんじゃないのか、と感じる。


 


DSC00067


一番「好き」って気持ちになった作品。彼女は「一番難しかった」と笑っていたけど、儚さの中にも力強さを感じた一枚だった。元の写真は作品全体を押さえているんだけど、あえて作品の一部が欠けるようにトリミングしてみた。これだけで文字の力強さが増した感じがする。


 


DSC00075


せっかく並べて展示しているのであれば、並べた視点で見るべきだろう。人間の目ってなかなかそういう風に見ることができないけど、ファインダー越しなら意外と簡単にできるものだ。制約条件が作品と作品の間の空間を上手に埋めてくれて、まるで4つで一つの作品と個々の作品の両方の価値を同時に作ってくれる。


 


あらあら、気づいたら勝手に好き放題書いている感じだ。


今、友人の七澤菜波さんの個展が「フォーシーズンスホテル 椿山荘 東京 アートギャラリー」で開催されています。写真や絵よりも柔らかく感じられるのではないかな。もし何かを感じたらポストカードにひと言書いて投函する、そんな非日常なことをしても面白いかも。心が震えたら、ホテルのラウンジでひとときを過ごしながら言葉を綴ってもいいのでは。きっと万年筆が似合いますよ。


DSC00066



Nanami Nanasawa Exhibition 2012


七澤菜波 墨象展


「爛-RAN」ー朽ちてゆく花は妖艶なりー


 


9月27日(木)〜10月8日(月)


10:30-18:30


フォーシーズンスホテル 椿山荘 東京 アートギャラリー

シリーズ最後はオールスター戦 『PRIDE-プライド 池袋ウエストゲートパーク』 石田衣良




"PRIDE(プライド) 池袋ウエストゲートパークX (文春文庫)" (石田 衣良)


 


IWGPシリーズもこの節目の10作目でひとまず終わる。比較的コンスタントに出版されていたので感覚的にはあっという間の出来事のような印象だ。でも、細かく見るとマコトのPHSはケータイに変わり、IWGPのタイトルを並べてみればその時代のキーワードみたいなものがうかがえる。


 


他の人のレビューを見るとこの10作目に対してはどちらかというとネガティブな感想が多いような気がする。「ストーリーが焼き直しと」か、「タカシがキングらしくない」とか...。でも僕はそうは思わない。なぜならIWGPシリーズの真骨頂はリズムだから。それにじっくりとよく見て欲しいんだけど、実は使っている単語には普段使わないような単語も多く含まれている。それにも関わらず、すんなりと読めてしまう。それはつまり独特のリズム感があるから。そして、流行りモノを素早く取り入れて時代の空気感を作る。それ以上を求めるものじゃないし、それがIWGPらしさだと思うんだけど。


 


この「PRIDE-プライド」も4つのエピソードが描かれていて、


ってタイトルが付けられている。


個人的には最初の「データボックスの蜘蛛」が好き。タイトルから想像がつくと思うけど、ケータイにまつわる事件。最初のIWGPが上梓されたのが1998年だから、まだケータイは電話の時代(iモードのサービスは翌年だからね)。それが10数年でパソコンの代わり+αになっている。ほぼ手のひらサイズの箱の中には情報だったら何でも入れられ、何でも引き出せるようになったし、それがすごく便利だからそれに依存した生活になってしまっている。だからこんな事件の可能性があるわけ。


タイトル作でもある「PRIDE-プライド」はオールスター戦。シリーズの最後を飾るためにそうしたのだと思うけど、テーマ的には好きになれない。作品云々ではなく、基本的にこのテーマが好きじゃないから。でも石田衣良独特の言い回しで、ちょっと気に入ったのはこのエピソードの中の言葉。


ほんとうの宝物って、ただの値札や流行で決まるわけじゃなく、そうやって増えていくもんだよな。なあ、あんたにはいくつ、そんな宝物がある?


自分の中の大事なものって間違いなくPricelessだし、意外となんでもないものだったりする。もしかしたら、モノでもないかも知れない。こういうフレーズに出会うだけでもIWGPを読む価値があると思うんだけどね、僕は。


 


*この作品は電子書籍で読みました。

強い個人の集合体が強い組織をつくる 『ビジネスマンのための「個性」育成術』 黒木靖夫




"ビジネスマンのための「個性」育成術 (生活人新書)" (黒木 靖夫)


 


本との出会いというのは得てしてセレンディピティなものである。「組織とその管理」というテーマは僕の中でずっとモヤモヤしたテーマで、組織の強化と個人の能力の育成がどうもうまく結びつかなかった。本書はそんな気持ちをスムーズに整理してくれて、たくさんのヒントを与えてくれた。


 


著者の黒木靖夫氏はソニーで取締役をされ、その後、自身でデザインセンターを立ち上げた人である。ソニーの創業者である井深氏や盛田氏と一緒に数々のプロジェクトに携わり、特にソニー製品のデザイン周りを中心に活躍された。デザインといっても、今でいうところの「デザインを起点としたUX」をはじめ、その製品をどう見せれば(文脈も含めて)伝わるか、ということまで包含しているのでソニーを大きくした立役者の一人であることは間違いない。


この作品そのものは10年以上前に書かれたものだが、今のこの時代の方が魅力的に感じるだろう。それは「ソニーだから」とか、「この時代だから」という話ではなく、普遍的なテーマを「組織」ではなく「個人」という切り口から説いている。


また外部の人がソニーという会社を表現するとどうしても「持ち上げる」か「批判する」の二極化しがちだが、客観的な視点でありながら暖かさを感じる表現が多い。著者の人柄でもあろうが、「個人」あるいは「個性」を重んじた考え方を持っていたことを感じる部分でもある。


ただし、一つだけ違和感を感じるのは本書のタイトルである。「育成術」よりも「個人の集合体である組織」の方がしっくりくる。


 


いくつか気になった部分をピックアップしてみたい。



物を作る企業の個性とは何か。それはメーカーズ・ウィル、つまり経営者なり職人なりの、個人の意志の表明にほかならない。こういう考えでこういう物を作っているのだという意志を製品に込めているのである。


こういうことを感じるモノは長く使っていきたいし、売った後もこういうメッセージは所有者に伝えていくべきだと思っている。世の中の多くのものは売るためのメッセージには注力するのに、売った後のメッセージは非常に希薄である。まるで「釣った魚には餌をやらない」ことを地でやっているような感じだ。供給過多な時代には所有者の気持ちが満足して、再度その製品を購入する、あるいはそのメーカの別製品を購入するコミュニケーションができるかどうかが重要だろう。そういう意味でもモノに込める気持ちとそのメッセージの発信は大事な「仕事」である。



私は井深にこう言ったことがある。「人が物を買うというのは、技術的に優れているからだけではありません。かっこいいとか可愛いとか持ってさわってみたいとかいった人の感情が物を買わせるのです」。盛田にさらに言わせれば、物を作る人の感情を買うことになるだろう。


五感に響かないものは買われないし、たとえ買われても長く使われない(=リピートされない)。手で触った時の感触や見た目はとても大事で、これを備えているモノはそのモノのストーリーと持っている人のストーリーが重なり、新たなハーモニーが生まれるものである。例えば音楽を聴くだけならスマホでも数千円の音楽プレイヤーでもできる。でもウォークマンにしかできないものが相手(所有者)に伝わった時には別の世界観が生まれる。それは機能によるものかも知れないが、人は機能に喜びを感じるものではない。機能によって生み出される「体験」に感動するものである。


 


久しぶりにじっくりと時間をかけて、そして部分部分で反芻しながら読み進めた一冊だった。この本はまた時間が経過した時にゆっくりと噛みしめながら読みたい。


 


*この作品は電子書籍で読みました。