「ラッフルズホテル」 村上龍

ラッフルズホテル (集英社文庫)

ラッフルズホテル (集英社文庫)

この本が出た頃だから、約20年くらい前に読んだことになる。当時は何が良くて評価されたのか全く理解出来ないまま、最後まで読んだ。読み切っても爽快感や感銘を受けることもなかった。つまり理解の域を越えていた。
今回は図書館で何気に手に取り、約20年振り再会になったわけである。「理解出来たのか」と問われれば、「理解出来ない」と答えるだろうが、妙な心地は残った。きっと村上龍の作品を身体の中に取り込むには感性の他に、知識や経験が必要ということだろう。

「だからとても機能的だが、それは一見機能的に見えるだけで実際はとても曖昧だと思う、つまりわたしが曖昧だという意味は、相手にまったく敬意を払ってない場合でも敬語を使うことによって自分の気持ちをごまかせるということだ、相手に対する言葉として英語にはYOUしかない、大いなる命の恩人から唾棄すべき裏切者に至るまですべてYOUだ、だから非常に不便に思えるが実は機能的で厳格なのだ、愛を抱いてYOUという時にはその感情を込め、行為を伴わなくてはならない、憎悪を込めてYOUと呼びかける時にはさらに憎悪の表現をしなくてはならない、しかしわたしは考えるんだが、曖昧な方が良いのではないかと思える時がある、YOUはわたしに対してどういう感情を抱いているか?と厳格に問い続けて成立し続ける人間関係などこの世の中に存在するのだろうか?それは行きつくところは人間関係を法律で規定することになり、果ては金銭に置き換えざるを得なくなる。」

この言葉は非常に印象的である。言葉は文化を図式化した一部だと思うが、日本語の曖昧さ(同一のものを表現するのに多数の語彙が存在する)は、文化の中に存在する曖昧さを表現したものだろう。
この本が世の中に出た頃、世の中全体は「バブル絶頂」の時期で、タイトルにもなっているシンガポールの「ラッフルズホテル」はそんな時代でも憧れの対象となるホテルだったのではないか。僕がかつてシンガポール出張で訪れた時に外からではあるがホテルを眺めて、その雰囲気を味わったことがある。金銭的なモノサシがすべてを決めていた時代に対する村上龍の答えがこの小説なのかも知れない、と20年経って感じた一日だった。