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数学的な思考を導き出してみる 『花の下にて春死なむ』 北森鴻


"花の下にて春死なむ (講談社文庫)" (北森 鴻)


北森鴻を最初に読んだのはこの『花の下にて春死なむ』。友人に柴田よしきを薦めた後に、それならば・・・と薦められたのが北森鴻だった。実際にこの『花の下にて春死なむ』から始まる香菜里屋シリーズはかなりの回数を繰り返し読んでいる。気付くとベッドに横になって読み耽っている。


 


この香菜里屋シリーズは三軒茶屋の裏通りにあるビアバー『香菜里屋』のマスター工藤哲也が客が持ち込む謎を解く所謂、安楽椅子探偵型の連作短編小説である。バーで出される肴は思わず食べたくなるぐらいに工夫された一品で、またその表現方法が上手なのも特徴になっている。おのおのの仕事では仮面や鎧をまとって時間を過ごすからは、そんな重荷を下ろして一瞬でもくつろげる場、そしてそんな心の距離を保ちながら的確な答えを用意してくれるマスターがいる店。誰しもが心のどこかで望んでいるような空間が描かれてる。


今回はちょっと違った見方をしながら読んでみた。


 


他の作品(蓮城那智が登場するシリーズ)では民俗学を中心にストーリー展開していることから、北森鴻民俗学や歴史の知識は相当なものがある。また古美術やその世界についても同様である。この『花の下にて春死なむ』の続編『桜宵』にもその断片が登場する。これだけを考えると完全に文系思考の文章になるわけだけど、実は数学的な考え方や表現がいろいろなところに登場する。


例えば、『七皿は多すぎる』では回転寿司店で鮪だけを食べる奇特な客の行動から常連客が推理するシーンで、鮪の皿から始まる組み合わせパターンがあり、鮪だけを選ぶ客は何かしらのメッセージを店の職人に伝えようとしている、と考える。客の一人はモールス信号と表現し、マスターの工藤(つまり作者の北森鴻)は『代入』という表現する。『組み合わせ』も数学で登場する言葉だが、一般の会話で『代入』という言葉は使わないだろう。数学の世界では一般化の方法として代数式を用いる。


工藤の推理は帰納法よりも演繹法的である。不明点は仮説で埋めていく表現をするが、裏を確認して事実の積み上げをしていく。逆に仮説で表現したストーリーは結末を描いていない(『七皿は多すぎる』、『魚の交わり』)。つまり結末が無くてもストーリーしては成り立たせている(=読み手に満足感を与えている)。


 


もし今、僕が大学の卒論のテーマにするんだったらきっと『北森鴻の作品に於ける数学的思考』という論文をだろう(ちなみに大学は文学部だったので)。