せめてタイトルが違ったらまた違う印象だったかも知れない 『悪意』 東野圭吾




"悪意 (講談社文庫)" (東野 圭吾)


 


「xxxの記録」と書かれていると、見ただけでなんとなくそこに書かれている内容は「事実」である、そう思ってしまうことが多いのは僕に限った話ではないだろう。単に文章ではなく、その文章を「記録」という形式で書かれたものであるならば基本的に書き手の主観はできる限り排除され、事実を時系列に従って積み上げられたものだろうから。この作品は「手記」、「独白」、「回想」と「記録」の積み重ねで構成されており、実は「記録=事実」という、そんな潜在的な意識への挑戦といってもいい物語である。


 


実は他の東野圭吾作品はあまり読まないんだけど、この加賀恭一郎シリーズはなぜが気になって最初の作品が読み続けている。きっと主人公のストイックな姿や結論が出ても疑ってかかる捜査方法が僕自身と真逆だからだろう。共感とは違う不協和音なのに共鳴する感じだ。


この加賀恭一郎シリーズの第4弾「悪意」は比較的早い段階で犯人にたどり着く。その時にきっとこう思うはず、「残りのページをどう展開させるのだろうか」と。しかし、心配はいらない。そう思ったのなら、完全に東野圭吾が仕掛けた罠に嵌まっているいるから。ほぼ最後まで読み手の意識をかわす仕掛けに翻弄されっぱなし。


 


ここからはちょっと視点を変えた感想を。


この作品の構成を考えると非常に数学的というか、入念に構成を考えてプロットされたものを作品にしている感がある。東野圭吾自身はエンジニア出身なので自然とこういう思考なのかも知れないが、作品としても面白みという点では多少のブレというか、ゆらぎ(言い換えると読み手が勝手に想像するすき間のようなもの)があった方が楽しめるのではないだろうか。とはいえ、この作品が面白くなかったわけではなく、十分に楽しめたからこその贅沢でもある。それが顕著に表れているのが本書のタイトルだろう。読み終えてみて、「悪意」というタイトルでもいいがもっと違うタイトルだったらどうだっただろうか、と思いながら、的確なタイトルが思い浮かばない。もし、今の東野圭吾がこの作品を書いたらもっと違った仕上がりになったのではないかと感じている。うまく表現できないが、まだ熟れていない感じがする。何事も少しぐらいあいまいなところがあるぐらいが座りがいい気がしますが如何でしょうか。