割り切れないいろんなものがあって「現実」なんだよね 『まほろ駅前多田便利軒』 三浦しをん




"まほろ駅前多田便利軒 (文春文庫)" (三浦 しをん)


試しにGoogleで「便利屋」と入力して検索したら約2450万件という結果で、Google Adwords(入力した言葉に対応した広告ね)も上にも横にも表示され、結構入札されているのが分かる。つまり「便利屋」のニーズはそれなりにあって、さらに供給も相当あるみたい。僕も僕の家族も頼んだことはないけど、今の世の中に求められている商売なのかも知れないね。


 


便利屋のお仕事って『あいだ』を埋めることなのかも、って考えている。この作品のモデルになっているのは東京の町田市だけど、狙っているのかたまたまなのか別にして似たようなところがある。都会でもなく、かといって田舎ではない(人口だけでいえば40万人以上いるしね)。東京都ではあるけど小田急(作品の中ではハコキュー)でいうと東京→川崎市(神奈川)→町田市(東京)になるので、「東京でありながら東京じゃない」と思われている節があり、かといって神奈川じゃないよね(実際、東京だし)。ちょっと難しくいうと、相反まではいかなくても違う2つのもの(時間的、文化的、空間的など)が同一の場所に存在している。実は人もそうだよね。高級なお店でコース料理を食べることもあれば、マクドナルドのセットをクーポン使って済ませることもある。食べ物に限らず、インテリアだって、服だってそうでしょう。


 


「便利屋」の仕事って、時代の変化によってできてしまったグループとか場所に、物理的にも精神的にも人間が結びついてしまったためにその間を埋める仕事が生まれ、そして大きな需要になっていったのかも知れない。


だって便利屋のメインの仕事って家の掃除や不用物の処分だったりするじゃないですか。作品の中でも主人公の多田啓介は街のあちこちでお掃除の仕事をする。でも掃除ってそもそも自分でするものって考え方だと思っていたら、時間価値に対して金銭による評価をした時に時間の価値の方が高いから便利屋にお願いするって発想になっていて、実際にそうなっているから商売が成り立っている。家の掃除を人に頼むなんて精神的に堕落しているな、と思う反面、啓介が仕事で作業する以外に道具や材料を仕入れにいったり、道具を工夫したりと表面化しない部分でプロとしての仕事をしている。どういう仕事でもプロ仕事は見ていて気持ちがいい。多田も自分がプロになっていくことで少しずつ「誇り」のようなものが芽生えていったのではないかと感じる。


 


本書のもう一つのテーマは「家族」とか「家族愛」かな。


正解なんてものはないし、いけないと思いながらも口より先に手が出ている時もある。親という立場を利用して理屈じゃなくて「ダメ」っていう時もある(親側が面倒というケースもあるし)。まあ、それをいちいち気にしていたら病気になっちゃうし、そもそも世の中は理路整然として成り立っているわけでもない。本書の舞台になっているまほろ市みたいに近代的な部分もあれば、怪しい場所も残っていて、それぞれの場所で生きている人がいる。それが現実だと思う。だから家族の中であっても、結果に対して反省するよりもネガティブなことをこの先にどううまく活かしていくか、それしかないような気がする。娘がもう少し大きくなったらこの本を読んでもらって感想を聞こう。