正直にいいます、今回も泣きました 『キネマの神様』 原田マハ




"キネマの神様 (文春文庫)" (原田 マハ)


すみません、また泣いてしまいました。でもね、いつもの本を読んで流した涙ではなくて、映画館でいい映画を観た後に流す涙だった。エンドロールが流れ、バックで音楽が聞こえる中で心地いい疲労感と「この状態の顔は見られたくないな」って恥ずかしさが入り交じったちょっと複雑な、あの状態。


不思議なんだよね原田マハの文章って。使っている言葉だけを見ると高校生でも書けそうな文章なのに、心を揺るがす「流れ」がある。それにいつもやられちゃんだけど・・・。それにお決まりのパターンがなく、いつもいつも新しい切り口でストーリーが展開される。そして最後は「泣かされる」んだよ。だからね、外では読まない方がいいよ。ひとりになれる場所でゆっくり味わってください、そう映画の良い作品を観るように。


 


大手デベロッパーに勤め、40歳手前で文化・娯楽担当課長に抜擢された主人公・歩。世間的にはエリート街道まっしぐらだった。そう「だった」って過去形。妙な噂が原因で会社を辞めることになった。でも辞めたことをなかなか言えずにいる。


一方、父親はほぼ病気のようなギャンブル好き。「宵越しの金は持たない」主義といえば聞こえはいいが、つまりお金があればギャンブルにつぎ込み、お金が無ければ借金してでもギャンブルにのめり込む。そんな親子にも共通点があった。『映画好き』だ。それもTVやDVDで観るよりもスクリーンで、つまり映画館で観る映画が好き、ときた。新しい作品だけではなく、過去の作品も名画座に足を運んで観るぐらいのレベル。


そんな父親が病気で入院したことをきっかけにギャンブル病から立ち直らせるための計画を画策する。歩自身はハローワークに行きながらもこれまでの経験やプライドが足かせになり、なかなか仕事に就けない。まるで家族全員が「負け組」のような状態になる。そんな家族を『キネマの神様』は見逃さなかった。映画を観て楽しみ、いい映画を心から求め、見続けたからだろうか。


 


映画に限らず、イマドキでいえば本も同じような境遇なのかな。かつては時代のある部分を背負った産業が新しい技術や生活習慣の変化にさらされ、その中で過ごす人たちにとっては今や逆境の時代になっている。映画もTVやDVDで観ることができるし、本も電子書籍やもしかしたらネット上で読むこともできるような時代。でもね、作った人(映画も本も関わった人みんなね)は観てくれれば、読んでくれればいい、と思っている人だけじゃないよね。やっぱり大きなスクリーンと大音響の中、身体全体で感じて欲しいと思って作っている人もいるはずだし、指先に紙の感触を感じながら読んで欲しいと思って紙を選んでいる人もいるはず。『(好きなことを)伝えることを諦めない人』には神様が味方してくれるんじゃないかな。


この作品を表現するのに、ストーリーの中にはたくさんの有名な作品が登場し、映画ファンは読みながらきっとにやけてしまう、ということもできるし、親子の関係の難しさをモチーフにしたサクセスストーリーという言い回しを使うこともできるだろう。事実そうだと思う。でもそれだけじゃ僕も泣かない。映画をメタファーとして捉えて、他のすべてのものに置き換えてみると自分自身を含めて忘れかけている気持ちというか、考え方に一石を投じたかったんじゃないかな。映画評論家だった淀川長治を表現している部分で、



「解釈」ではなくて、「理解」だ。


と20文字弱の言葉に作者・原田マハの思いが集約されている気がする。どう解釈する/したかではなく、どう理解する/したかが重要なんだ、って。理解すると何が変わるかなあ・・・・きっと主語は「自分」になるよ。


心が揺らぎ過ぎるとこんな文章にしかならない。読んだ後に上手な文章にならないけど、「解釈」を説明するわけじゃないし、僕の「理解」の状態は間違いなくこの状態です。