小説を楽しみながら自分自身を再点検する 『カナリヤは眠れない』 近藤史恵


"カナリヤは眠れない (ノン・ポシェット)" (近藤 史恵)

近藤史恵さんの作品を最初に読んだのは『サクリファイス』が本屋大賞の候補にノミネートされている時に版元の新潮社の方に一押しされて読んだのが最初だったと思う。『サクリファイス』の完成度が高かったので、その後は比較的コンスタントに近藤作品を手に取るようになり、今となってはかなりの作品を読んでいる気がする。

 

本書は「整体師 合田力」が登場するシリーズの最初の作品。ミナミにある古い5階建て雑居ビルの5階からさらに非常階段を上り、屋上に建てられたプレハブがその治療院。なんとなくの土地勘はあるが、大阪の人の感覚は分からないけど、僕が普通に考えれば余程のことがなければこの場所で屋上に建てたプレハブで営業している治療院には行かないよね(これって違法建築だよね)。まあ、当初、小松崎が不安な気持ちで「大丈夫?」と聞いていたぐらいだからきっと大阪の人も同じ気持ちなんだろうけど。

寝違えて首の痛みがひどい状態なのに、足の親指の付け根を触られ、尋常じゃない痛みが走る。

「あほか。そんなひどい状態の首、いきなり触れるか。足も首も繋がっているんや」

と言葉はメチャクチャだけど、正確な診断と処方はもちろんのこと、その原因となっている心の奥も感じてしまう特殊な能力を持つのがこの力先生。小松崎は一回の施術で普段の生活での課題を指摘される。僕も身体に疲れが溜まってくると身体の変調に気づく。ジャンクフードを食べる頻度が高くなり(気持ち的にジャンクフードでいいや、と思う)、薄味のものを自然と避けるようになってくる。要は薄味のものが美味しく感じなくなるのだ。そして食べ物の消化もイマイチで、追って肩こりや頭痛へと進んでいく。こうなると身体のメンテナンスをしないと症状は悪化するのみである。

 

力先生のところに美人の姉妹がいる。二人ともある依存症という病に冒されている。心が病んでいれば身体に変調をきたし、身体を酷使すればやがて心も荒んでくる。力先生の言葉はうまい表現だなと感心した(実際には近藤さんの言葉なんだけどね)。

「要するに、身体ってな、乗り物なんや。ほかのに乗り換えることがでけへん乗り物。身体のことばかり考えて、身体にお金をつぎ込んだから、いうて、乗っている精神まで立派になるわけやない。でも、車が故障したり、調子悪かったり、汚れていたりしたら、乗っているやつは気分悪いし、悪影響はでてくるわな。そういうもんや。だから、身体にどれほど意識を払うか、いうのは、人それぞれの自由やけど、これだけは忘れたらあかん。人間は行けるとこまでしか行かれへんのや。身体があかんようになったら、それまでなんや」

これはちょっと深い言葉で昨年から続いている断捨離にも通じるな、って。心と身体だけじゃなく、身の回りに余計なものが増えてくるとそれらがやがて澱のような感じになってくる。

 

買い物依存症になっている患者との一幕での言葉では、

「そうじゃない。あなたは自信がないから、選択の自由を他人に押しつけようとしている。ご主人が行くなと言ったから、くるのをやめ、わたしがこいと言えばくるのですか?決めるのはあなたです。だれもあなたの決断に保証などできません」

いかがですか? 力先生にあってみたくなりませんか?

エピソードを通して二人の姉妹との関係も明らかになっていきます。その答えがタイトルでもある。力先生の活躍は自分自身を見つめ直すいいきっかけでもあります。断捨離やら片付けものに反応する人はきっと楽しめると思いますよ。