五感に訴える『紙』の本
先日実家に帰った時に親父と話した話題の一つが、本が『紙』であることの良さに関して。特に五感に対して訴える力は明らかに紙の本の方が強いだろう、と。かつて音楽がLPという30センチサイズのレコードであった時、その入れ物としてジャケットが存在し、その大きさが顧客へのメッセージのメディアになっていた。それがCDになり、ある意味ではジャケットは存在しているもののサイズは12センチ強であるため、表現できる幅は狭まり、そのことに嘆きを訴えるコメントを数多く見てきた。そして今や音楽はダウンロードが中心になりつつあり、そのジャケットの存在すら無くなりつつある。
本の話に戻そう。僕も実際には音楽のジャケ買いならぬ『装丁買い』や『帯買い』をすることがある。あるいは使用している紙が特殊で、その風合いでつい手に取り、レジに並ぶ。当然、出版社や編集者の意図があるからそのような仕様になっているわけだけど、それ以上にその本には『アフォーダンス』があるということである。
また本の厚みというのも実は重要な要素の一つだと思っている。500ページを超える文庫本はかなりの厚みになり、右手で押さえるページ量で物語のどの辺か指と目で感じる。そう感じるのである。
親父は紙の『匂い』と表現していた。それはきっと自身の視力がほぼ失っているからだと思ったら、今日の読売新聞のコラム『編集手帳』にも似たようなことが書かれていてちょっとビックリした。新しい本ではなく、古い本の何となく埃くさい匂いも含まれると考えればそうかも知れない。もし実家で小さい頃に読んだ本を見つけ、その埃っぽさに刺激され昔を思い出すこともあるかも知れない。ちなみに僕は小さい頃は全然本を読まない子供だったので、僕の実家にはそれは無いんだけど・・・。
毎日のように電子書籍や電子出版に関するニュースが時代は確実にそっちの方向に向かっている。が、懐古主義ではなく、五感に訴える『紙』の本はその存在意義を変えてでも生き残っていくメディアだろう。
新しい頁をきりはなつとき/紙の花粉は匂ひよく立つ〉。室生犀星の詩『本』である。ペーパーナイフでページを切り開きながら読む「アンカット」、別名「フランス装」の書物をうたっている。真新しい紙の匂いか、インクの匂いか。いまはフランス装の本をあまり見かけないが、普通に製本された書物でも、花粉にたとえたくなる新刊書の香りは読書好きの人ならば知っている。谷川俊太郎さんが詩集『詩の本』(集英社刊)のあとがきで「匂い」に触れていた。〈…手にしたときの重さ、匂い、ページを繰るときの紙の手触りなど、栞をはさむというささやかな行為すら、詩の一部だと感じさせるのが詩の本の魅力だろう〉と。“電子書籍元年”という声も聞こえるなかで迎えた読書の秋である。携帯端末で読む電子書籍にはそれなりの便利さがあるにしても、紙の書籍がもつ匂いの魅力が消えることはあるまい。自由律の俳人、尾崎放哉に一句がある。〈淋しい寝る本がない〉。猛暑を耐え忍ぶのに疲れ、読書どころではない夜がつづいた人もあろう。就寝の友を探しに、散歩の足を書店に向けるのもいい。