検索がすべてじゃない


週末のどちらかは娘や息子と図書館に行くことが多い。元々、娘は幼稚園の頃から自分で幼稚園の図書館で本を借りてくるぐらいの本好きで、息子の方もようやく好きな本を自分で選ぶようになってきた。今日は娘と一緒に近所の図書館を2カ所まわった。うちは調布と狛江の図書館が利用でき、またあちこちに分館があることからその時々で訪問する図書館が違う。各図書館も『色』を出すためか、揃えているものの中心が若干違う。


 


今日は図書館について書きたいわけじゃなく、娘の行動で気がついたことがあるのでその辺を。最近の図書館には検索用にPCが置かれている。図書館の中だけではなく、自宅のPCからも検索や予約などが簡単にできるようになっている。僕が自宅でPCに触っていることが多いので(普段はMacBookを使っているので、余っているWindows機を子供たちに触らせている)、自然とGoogleで検索して見たいページにリンクして見ていたりする。図書館の中でふと見ると、著者名を入力して自分が読みたい作家の作品を探し、その棚から目的の本を探してきた。これはこれで問題無いんだけど、もし仮に検索キーワードが違っていた場合や検索に引っ掛からない形での曖昧なキーワードな場合には当然ながら見つけることはできない。もしかしたら、見つけることができない=無い、という結論に至っても不思議はない。


本をPCの検索で探すことを教えた訳ではないのに、自然と検索を利用している。一見便利な『検索』という方法だが、検索エンジンのクセといった知識や検索方法そのものが未熟な場合、『見つからない』ではなく、『無い』という思考に陥るのではないか、という危惧がある。


ネットがない時代であれば、


  • 身近な人に聞く

  • 知ってそうな人に聞く

  • 辞典や図鑑で調べる


などいろいろな選択肢からチョイスして答えを導き出す思考が普通だったのに、何となくこのままいくと『検索』で見つからないものは『存在しないもの』となってしまうんではないか、という気持ちになった。きっと今後は検索エンジンも更に進化を遂げてほとんどの情報は検索することで見つけることが可能かも知れない。でも、隣の人に聞けば1秒で解決することをネットで調べて30分かかっているような現象は今でも会社の中でいっぱい起きているんじゃないのかな。『クイズ$ミリオネア』じゃないけど、ライフラインは1つじゃないということを教えないといけない、と感じた一日でした。