緊張感を楽しむ 『ビット・トレーダー』 樹林伸


"ビット・トレーダー (幻冬舎文庫)" (樹林 伸)


これも4月の幻冬舎文庫の一冊。雑誌『Papyrus』に連載されていた時を含めると3度この作品を読んだことになる。不思議なタイミングというか、ギリシャの金融不安から先週は軒並みヨーロッパ通貨が暴落し、為替取引の世界ではこの『ビット・トレーダー』の矢部のような緊張感を強いられたことだろう。


 


この小説の醍醐味は以前のブログに書いたとおり、それぞれのキャラクターのシナリオが最後に1つになるところ、そして株取引に深い知識が無くても引き込まれる文章力に尽きる。ネットの普及、回線のブロードバンド化と低価格化、新規参入証券会社の手数料の安さによって一度は足を踏み入れたことがある人が多い株の世界だと思うけど、ちゃんとした利益を出せるようになるにはそれなりの知識と経験が必要になる。僕も過去に何度か株を買ったことがあるけど、いずれもマイナスで儲かったためしがない。資金に余裕があれば、長期保有で株主メリットを得るとか、定期預金よりは利回りがいい、といった形があるかも知れないけど素人はなかなか難しい。主人公の矢部は基本的に長期保有をせず、その日に勝負する『デイ・トレーダー』で利益を稼ぎ出す方法をとっている。そのための準備も余念ない。そして変動幅で利益を出すのではなく、大きな資金を動かし小さな変動幅でも利益が出るような取引方法である。二重生活を維持するための資金を確保する、という目的はあるものの、それ以上にヒリヒリするような緊張感の中で取引する感覚に取り憑かれている。若い頃にクルマのスピードに虜になったのと同じ感覚を株取引で味わっている。そんな彼に持ち込まれたインサイダー情報に相乗りするような大勝負が本作のメインストリームになっている。


主人公の細かい操作の描写が臨場感を高め、読み手も同じような緊張感にさせ、ついつい読み進めてしまうのはスピード感だけではなく、どこか主人公への共感や憧れも感じているからかも知れない。


 


一方、若干、時間の流れと共に陳腐化してしまった部分もある。描写をリアルにするために操作しているマシンのスペックを描いている部分のことだが、今となってはそれほどハイスペックな状況ではなく、文庫化の時に手を入れた方が良かったのではないか、と思っている。コンピュータのスペック、ソフトウェアなど変化が激しい部分の描写は時間の変化と共に元々想定していた印象と違う印象を与えてしまうので時代に合わせた変更は必要と思われる。とは言え、作品のレベルは高く、株取引に詳しくなくとも十分に楽しめる仕上がりになっている。


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[Book]「ビット・トレーダー」 樹林伸 2008-04-13