『自分で選ばない』ことへの違和感


昨日のエントリーに書いた『多様性』とは逆の感じかも知れないが、近頃よく感じることなので。


iPhone 3Gを使い始めた頃は、よく『iPhoneっていいの?』と聞かれた。最近ではかなり多くの人がiPhoneを使い始めているのでそんなことはない。聞かれるたびに小さな違和感を感じていた。それは『・・・はいい?』という質問が非常に曖昧で、僕にとっては素晴らしいものでも相手にとって価値あるものかは次元が違うからだ。iPhoneに限らず、モノでもサービスでも、ある目的を実現するための『装置』でしかないため、その『装置』を利用して期待するものが実現できなければその人にとっては価値がないからである。もう少し具体的にいうと、週末に家族で出かける頻度が高い人にはミニバンタイプのクルマは価値があるかも知れないけど、僕のようにミニバンはクルマと見ていない人には価値もなければ興味の対象でもない。


なぜこんなことを書いているかといいと、仕事でもプライベートでも自分の利用シーンを無視してモノを選んでいる人たちが多いことに、どうも僕は気持ちが悪いというか、胸の奥に何かが引っかかったような気持ちになるからなんだけど。


その『証(あかし)』とは言わないまでも、いろいろなサイトには『ランキング』というコーナーがあり、各『なかの人』に聞くとランキングコーナーからのコンバージョンが高いらしい。高額商品の買い物をする時に意識として保守的になるのは分からなくもないが、本やCDを選ぶ(最近はこれらも買わない人が多いので選ぶこと自体が少ないかも知れないけど)のもランキングで、というのはあまりにも寂しすぎる気がする。きっと小さい頃から『自分で選ぶ』ということをしてきていないからかな。


僕らの子どもの頃は一部の人を除けば、たくさん欲しいものがあってもそのすべてを手に入れることはできなくて、多くは取捨選択の『捨』方にならざるを得なかった。だからいろいろな価値基準で相対評価した上で選択した1つを買った(まあ、買ってもらったかな)。時には親との交渉、『〜ができたら買ってくれる?』を繰り返しながら欲しいモノを手に入れてきた。今は楽に両方やすべてを手に入れてしまえば事足りる。『選ぶ』という訓練をしてこなかった結果も原因の一部じゃないかと思っている。『選ぶ』ということをしなければ『基準』は必要ないので、その基準の代わりの1つがランキングだったりするのかな。集団心理というものもあるけど、自分で選ぶのは当たり前なんだけど・・・・。そのうちに『Yahoo知恵袋』とかでチェックしないと選ぶことができない人が増えてくるとイヤだな、と本気で思っている。