疑似タイムマシンかも? 『日本経済に関する7年間の疑問』 村上龍


"日本経済に関する7年間の疑問 (生活人新書)" (村上 龍)

ちょっと古い本を読むというのは非常に興味深い。古いといっても古典ではなく、『ちょっと前』というのがポイント。このブログでも何度か書いた村上龍氏が発行しているJMMというメルマガがあり、その月曜日版を再編成したのがこの本である。つい先日、片っ端からメルマガ系を配信停止にしながら、JMMだけは楽しみにしているだけではなく、この月曜日版の村上龍氏のコラムは僕の中でも『特別』なものになっている。


何が興味深いかというと、数年前に指摘した結果を今、現実の世界として見ることができるわけである。まるでタイムマシンを利用して、過去にトラベルしたようなものだ。2000年4月10日に発行されたJMMで書かれている『投資と希望』は中でも琴線に触れた。

投資という行為は象徴的なものだと思います。

真偽のほどは確かめようがないのですが、狩猟採集社会には「貯蓄」という概念がなかったという話を聞いたことがあります。たとえば米作の場合、収穫した米を全部食べてしまうのではなく種籾を保存する必要があります。つまり「貯蓄」という概念が生まれたのは農耕社会以降だというわけです。

そういった「概念の起源」を深く考えてもあまり意味はないでしょうが、投資という概念がどうやって生まれたのか、興味があります。当たり前のことですが、投資は、現実の延長としての未来のイメージがないと成立しないのではないかと思うからです。

そういった意味では、希望と投資は深く関連している、あるいはよく似ているのではないかと思います。

親は子どもに投資しますが、子どもも、たとえば大学生になって建築や絵画を勉強するような場合、自らの資本財である時間と労力を未来に投資しているという考え方もできます。将来的に建築や絵画の分野で生活の糧を得ることに何かの希望を持ち、投資しているわけです。

そういう風に考えると、希望がないという若者は投資対象がないのだという言い方もできるかも知れません。自分の時間と労力を投資する対象を見つけられない、ということです。

(中略)

ただ、「未来への希望がない」というときに、「投資対象が見つからないだけだ」という風に考えると、問題をシンプルにできるのではないかと思いました。

10年前に村上龍氏が書いた文章なのに、先日の「情報病」に相通じるような内容です。この10年でインターネットを取り巻く環境は著しく変化を遂げたけれど、根本的な部分はほぼ変化していない気がする。逆に顕著になったといった方が良いかも知れない。ちょっと前の文章を読むことで変化の方向性や度合いを確かめることが可能なのではないだろうか。疑似タイムマシンかも知れない。