教えると学ぶ

日曜日の夜に久しぶりに娘と二人きりでお風呂に入っていた時の驚き。他愛もない話をしていて、なぜか近所のバス停の話になる。そう言えば「なぜバス停は道を挟んだ同じ場所にないのだろう」と質問をすると、まずは「分からない」という回答。意地悪ではなく、ちょっと考えてもらいたくて「僕らが車に乗っていて、目の前をバスが走っている。当然、バスはバス停で止まった。僕らはどうする?」という質問を投げてみた。娘は「バスを横から追い越す」と答え、「じゃ、反対側からもバスが来ていてバス停に止まっていたら・・・?」と追加質問をすると「分かった!」と答えを導き出していた。娘は小学校一年生だが、それでも考え方を教える(=伝える)ことは可能であることに気づき、正直言って驚いた。まだまだたくさんの知識を得なければいけない時期ではあるが、知識は得ることがゴールではなく、使いこなして知恵として利用しないことには意味がない。僕の子供時代もそうであるが、学校の勉強は知識を教えることはあっても知識を利用することを教えてくれない。試験の問題が解けて、点数を上げることはチェックポイントであって目的でもゴールでもない。「なぜそうなっているのか」、「本当にそれで良いのか」を検証する上でたくさんの知識や経験は必要である。ふと茂木健一郎の言葉が蘇る。「学ぶということは少しでも相手を理解するために必要な努力である。」パズルのピースが繋がった瞬間だった。